SSブログ

[Books]陳舜臣 その2 [Books]

昨日に続き、陳舜臣の「諸葛孔明」について。

諸葛孔明は、なぜ、北伐にこだわったのであろうか。
天下三分の計をなし、蜀の地を豊かにし、国力を蓄えていくことが、最も良い選択だったのではなかったのであろうかというのが、私見である。事実、孔明は史実の三国志では有能な内政官として実績を残している。要害に囲まれた蜀は攻めにくく、守りやすい土地だっただけに、防衛に力をそそぐことがベストな政策だったと思う。しかし、孔明は、軍をあげて国力を疲弊させ、蜀滅亡につながってしまった。当時の状況がやむを得ず、北伐に向かわせたものだったのか。
当時、蜀は人口90万人しかいなかったという。このままでは、ジリ貧でどちらにしても滅亡だったのかもしれない。
だからといって、北伐が一番良い政策だったのか。だとすれば、曹操はすでに亡くなっていたにしても彼の子孫を討ちたいという私闘ではなかったと言い切れないと思う。

歴史小説の醍醐味は、歴史的資料を背景に心情を語っていくことだと私は考えている。陳舜臣氏の歴史小説はこれに当てはまる。彼の三国志観は、良い影響を与えてくれた。三国志演義では希代の名宰相として描かれていた孔明であるが恨みやトラウマに、縛られていたのではないかということは、あまり想像したくはない。しかし、当時高校生だった私は三国志観を考え直す機会をくれた陳舜臣氏に感謝したことを今でも、はっきり、覚えている。

改めて、ありがとうございました。安らかにお眠りください。
タグ:Books 陳舜臣
nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

[Books]陳舜臣 [Books]

陳舜臣さんが死去された。私の尊敬する小説家であった。謹んでご冥福をお祈りする。

「小説十八史略」、「秘本三国志」は、当時、高校生だった私を夢中にさせた。とりわけ、「諸葛孔明」は、数度読み、彼の歴史感に感銘を受けた。特に印象深いのは、孔明の幼少時代の体験から乱世の奸雄、曹操孟徳を憎み、彼の思考が組み立てられていくと行った過程の描写である。幼少期を徐州で過ごした孔明は、戦火に巻き込まれる。それが曹操軍であって、蹂躙されたトラウマができてしまったのだ。戦火を逃れ、孔明は荊州に逃れ、隠遁生活を送る。孔明が成人になった頃には、すでに曹操が大陸の半分を飲み込んでいた。ここで、孔明は劉備の三顧の礼を受け、打倒曹操に力を貸すことになる。

ここで私に一つ疑問が残る。
果たして、孔明は、どのような心持ちで、劉備に仕官したのであろうか。劉備は天子を傀儡とする曹操を打倒したかった。当時、孔明の兄、諸葛謹は、呉を治める孫権に仕官していた。曹操に相対する勢力の一方の雄であり、家族がいるのであれば、なぜ、呉に仕官しなかったのであろうか。理由は二つと考える。一つめは、諸葛家の血筋を守るためであったのではないだろうか。曹操に相対する勢力に親族が別れていれば、生き残る可能性が高くなるからである。二つめは孔明は、恨みに報いるための仕官であったと思う。そうでなければ、大陸の半分を治める曹操に勝ち目を見いだすことは難しい状況で、仕官したであろうか。つまり、現在の劉備に仕えても勝算は低いが、憎い曹操に立ち向かう勢力だったことと、諸葛家が絶えることはないという担保があったから仕官したのではないかをいうのが私見である。

今となっては本人のみぞ知ることであるが、彼のような天才が、三度の訪問を受けた程度で、不利この上ない勢力の劉備に仕えた事自体が私の疑問である。

タグ:陳舜臣 Books

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。